天天晴天:台湾ドラマと中華なドラマ

台湾ドラマや中華なドラマの感想を書いています。吳慷仁が好きです。

「風中の縁」(の九爺) 第16話から第20話まで

「風中の縁(えにし)」(風中奇緣)、第16話から第20話。

 

無忌がいいです。あんな風に強引かつ安全にさらってくれ、あんな風に女の子に気配りができる、そして堂々とした有能な将軍でありながらユーモアがあり、先を見通す思慮深さもある。そんな無忌に魅かれない方がおかしいです。いつも助けが必要な九爺に魅かれている自分がおかしく思えるほどに無忌は素敵です。

 

エディ・ポン(彭于晏)は自信に満ちた開放的な明るさのある人だと思います。陰陽で言えば陽、周囲の光を吸収するような翳りはなく、負の感情も外向きに放出されるイメージです。無忌は、そういったエネルギーに満ちた感じに役柄の細やかさがいい具合に噛み合っている上に、声によって落ち着いた大人の雰囲気が加味されて、とにかく素敵です。

莘月に振り回されても、けっして尻に敷かれている風にならず安心感を与えてくれるところはポンちゃんだからこその魅力だと思います。ポンちゃんは軽い男を演じても変わり者を演じても無忌を演じても、不思議と頼りたくなるような何かを感じさせてくれます。

 

選ぶなら絶対に無忌。と思っているのに、いまだに九爺が心に入り込み邪魔をします。

 

以下、ネタバレあります。

 

 

 

無忌と莘月はとてもお似合いです。ポンポンと言葉を交わし、とても楽し気で、二人でいることが幸せそう。その上、無忌は、鳩を大切にする莘月に対しても、九爺から贈られた鳩であることに理解を示してくれます。「共に生きてくれるなら過去は気にしない」。もうどこに欠点があるというのでしょう。無忌は、まさに、共に生きるにふさわしい相手です。

 

莘月は、「好き」かはわからなくても無忌のことが心配で、いまだに槐花を見ると胸が苦しくなる、それを聞いた時の無忌の安心したような嬉しそうな顔にこちらまで嬉しくなってしまいました。

無忌と莘月の時間が長くなり、ニュートラルな位置よりも無忌側に傾きかけたとき、無忌が言った「莫循はいい男だ 才知に長けているし気品もある 滅多にいない好漢だ」という台詞に、一気に九爺側に戻ってきてしまいました。

そう、それなんです。胡歌演じる九爺だからこその気品や才知に長けた雰囲気。莘月を相手に一歩を踏み出せなかったり、お付きの人たちのお手を煩わせたり、ちょっと迷惑な感もありますが、それでも胡歌の九爺を見たら九爺に戻ってきてしまいます。

 

無忌は、莘月が以前から自分に好意があることはわかっていて、自分は一歩出遅れたと言っていましたが、もし、無忌と莘月が先に魅かれ合っていたら、莘月は九爺を好きにならなかったのでしょうか。

 

莘月をみつけた後の無忌が九爺のもとを訪ねた時、莘月がみつからないのは自分への罰かもしれないと言う九爺に対し、無忌はそのとおりだと答え、目の前の幸せを大事にしなかった、彼女に必要なのは想いを拒絶するような男ではない、と九爺に容赦なく正論をぶつけていましたが、九爺の位置で見た時に、それは本当に正論なのか疑問になります。

九爺が莘月を受け入れて目の前の幸せをつかむことは、莘月の幸せにはならないかもしれず、それによって彼女が危険な目にあったり、彼女の望む家族を得られないかもしれないのであれば、彼が幸せをつかみに行くことは結局彼女を傷つけることになってしまいます。この、前に出るにも留まるにも、莘月も自分も傷つける困難がついてくることが、九爺の立場のつらさであり、せつなさなのだと思います。

 

莘月は瑾瑜として胡偉立と恋愛関係にあった過去がある割に九爺に対して初々しかったり、無忌との結婚は言葉より行動が先だったり。心のままに生きる女性なんですねえ。

 

とにかく無忌は本当に素敵で、もうポイントは稼がなくてもいいです、というくらいに加点してきます。いつの間に鴛鴦藤を植えていたんだか。九爺と莘月の関係を不安に思いながらも、建安で莘月が無事に過ごせたのは偶然ではなく石舫が守っていたからだと、聞かれてもいないのに莘月に教えてくれる男らしさ。

その無忌の言葉に、「意のままにならぬものなどないと思ってきたから 君のことになると不安になる」という言葉があるのですが、この言葉を聞きながら、九爺は意のままにならないことが沢山あったんだろうなあと思ってしまいました。

こうして結局、ほとんど出番のない九爺に心を持っていかれたところで第20話が終了しました。